言葉に表される国民性

こんにちは、スピーチトレーナー高津和彦(こうずかずひこ)です。

最近の読書から、日本語についての気付きをお話します。

 


谷崎潤一郎の「文章読本・完」を読んだ。

僕はかねがね、
「文豪は書くことが仕事だが、いったい日本語をどのように考えているんだろう。」
単純にこう思っていたところ、この書に出くわした。


裏カバーに、本の紹介。

日本語の特色、それは谷崎の言として;
「言葉の数が少なく、語彙が貧弱であるという欠点を有するに拘わらず、己を卑下し、人を敬う言い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べ…」(本文引用)


そうか、昭和9年に、既に彼はこう喝破していたのだ。


そして本文197ページでは、
「例えば一人称代名詞に、わたし、わたくし、私儀、私共、手前共、僕、小生、迂生、本官、本職、不肖、などという言い方があり…」
と記している。 

続けて、谷崎は、二人称も同様に非常に多くの言い方が存在すると列記する。
それは、相手と自分との身分・釣り合いを考え、礼を失しないように使い分けるという文化から発生してきた表現といえるのだ。


そうだ、まったくそのとおりだ。


英語だと「I」、くだけても「Me」。
それしかない。


ここまでだと語彙が貧弱どころか、日本語は複雑な対人関係を人称代名詞だけで言い表すことができる、なんて豊かな言語なんだと思う。
この点においてはすばらしい。
礼節を重んじる国民性が、まさに国語に表されていると言えるだろう。


さらに谷崎は、日本の文化の中での、日本語の特性として、「饒舌を慎むこと」を挙げている。

そしてこの「饒舌を慎む」つまり控えめにするという思考は、
「文をあまりはっきりさせようとせぬこと」へと繋がっていると説く。

曰く、
「生な現実をそのまま語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事柄との間に薄紙一と重の隔たりがあるのを、品が良いと感ずる国民なのであります」(200ページ)


そうか、わかったぞ。
それでみんな物をはっきり言わないんだ!
特に昨今は顕著に。


今や話の中で、名詞の後にすぐ「とか」が付かない時はない。
それ以外にも「といったような」、「みたいな」が付いてくる。
例: 
「名詞とかのあととかに」
「名詞に付いてくるといったような」
「名詞に付いてくる、みたいな」


そして動詞の後には、ほぼ必ず「思います」、「ないのかなと思います」が付いてくる。
例:
「付いてくると思います」
「付いてくるのではないのかなと思います」


そんな文章で話していると、結果どうなるか?
文意がぼやけてくる。
それが「伝わらない」になるんだ。

しかし、みんな心では「伝えたい」と思っている。
それには文を「はっきり」させなきゃいけないのです。


「古来支那や西洋には雄弁をもって聞こえた偉人がありますが、日本の歴史にはまず見当たらない。その反対に、我らは昔から能弁の人を軽蔑する風があった。」(55ページ)

「国語の長所短所と云うものは、その国民性に深い根ざしを置いているのでありますから、国民性を変えないで国語だけを改良しようとしても無理であります。」(58ページ)


すなわち。
伝えようとするならば、その日本語の短所をちょっと乗り越えて、
「はっきり」言うようにしてみよう。
 

 

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